井深大(いぶか まさる、1908年(明治41年)4月11日 – 1997年(平成9年)12月19日)
我が師 井深の爺ちゃん(いつもはそう呼ばせて頂いています) は太宰さんとは、一つ年上なんです。
感覚からすると、太宰さんは、学生時代の文学史で習った人なので、遙か昔の人かと思っていたのですが、そうでもなかったんですね。
太宰治生誕百年、そういえば去年は爺ちゃんが生誕百年だったなということで、井深氏のことを、ウイキペディアで、調べました。
井深氏は、栃木県日光市に生まれ、
3歳の時、父親の死去に伴い、愛知県安城市に住む祖父に引き取られる。
母と共に5歳から8歳まで東京に転居、
その後は愛知県へ戻り、安城第一尋常小学校(現・安城市立安城中部小学校)卒業。
神戸一中(現・兵庫県立神戸高等学校)、
早稲田第一高等学院、早稲田大学理工学部卒。
つまり、
0歳 栃木
3歳 愛知
5歳 東京
8歳 愛知
14歳頃 兵庫県
17歳頃 東京
3歳の時に父親が死んだ。その後父方の家に、父親無しで暮らすというのは、母親にとってかなりのストレスだったしょうね。
その後、母と共に東京に行くが、なぜか、また、愛知県に戻ったと言うのは、親の愛情という点からすると、恵まれない幼児期だったと思いますね。
井深少年も悩み多かったことが伺えます。
みんないろいろ苦労しているんですね。
もう少し調べてみました。
J-Net21 の 創業者列伝 というページでは、以下のように解説をしていました。
http://j-net21.smrj.go.jp/establish/retsuden/index.html
「 井深は、古河鉱業日光製銅所の技師であった井深甫の長男として、明治41年4月11日に生まれている。
ところが父は、彼が3歳のときに他界し、幕末の戊辰戦争において会津藩士として奮戦、生き残った祖父が、井深を引きとることとなる。廃藩置県後、“国賊”扱いにされ、苦労し、北海道で官吏となった祖父は、古武士然とした我慢強い人で、井深の人間形成に多大な影響を与えた。
が、当時としてはハイカラな日本女子大学を出ていた母にすれば、義理の父である井深の祖父は、馴染めない人であったようだ。母は自活の道を求めて上京し、日本女子大の付属幼稚園の先生をしながら井深を育てた。
父と母を失ったに等しい井深は、孤独感を埋める手段として、無線機製作などへ打ち込んでいく。」
辛い幼児期だったんですね。
そうなんです。お母さんが働くってのは、子供にとっては、家の中に母親もいなくなっちゃうことなんですね。
親からしてみれば、「私は仕事が終われば家に帰ってくるんだから」と思っていても、子供からしてみれば、お母さんがいなくては寂しくて仕方ありません。
そこで、井深氏の著書の「0歳からの母親作戦」の中で
「子育てこそ、女性にとっての最も素敵な仕事なんです。 0歳からの時期、子どもは一番身近にいる母親をまねて育ちます。」
と言ったり、子供達の未来を豊かなものにするためにソニー教育財団を作ったりしていたんですね。
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井深大 もう一つ。
名前が 大 と一文字ですね
祖父が 井深基
父親が 井深甫
本人が 井深大
息子が 井深亮
凄いですね、四代続けて、一文字の名前。
私の所は、四代続けて、二文字の名前と全く普通です。皆さんの所は如何でしょうか?
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井深大氏 の息子である 井深亮氏 が書いた本 「父 井深大」 があります。
その中で、井深亮氏は、父の井深氏について下記のように述べています。
「父は、2歳の時に、父親を亡くしている、父の前に生まれた長女は早産でなくなったというから、一人っ子の父は、寂しい幼年時代を送っていると思う。」
(ウイキペディアの筆者は3歳と言っています)
「父は、父親の味を味わうことがなかった。だから、父は、自分が父親としてどういうスタンスで子どもとつきあえばいいのかと言う点では、大いに戸惑ったと思う。」
「父は、私が大学3年のとき母と離婚した。しかし、別居状態になったのは、もっと早く、私が中学1年くらいの時だった。」
「思春期の最も多感なときだったが、不思議に父を恨みに思う気持ちはなかった。許せないけれども我慢しなければと思っていたのだ。」
「正式に離婚するとき、父は50代の後半だったが、母に、”僕もこの年になったから、そろそろ好きなことをしたいよ。させてくれ。”と言って、家を出て行った。」
「母 は、終戦前後に文部大臣をつとめた前田多門の娘として生まれ、身体が弱かったためか、世間知らずのお嬢さんとして育ってしまった。プライドが高いところも あったと思う。素知らぬ顔をしてすましていると言うことができなかった。夫と父親を比較するというような所もあって、父としてみればそうしたことも、分か れる一因になったのかもしれない。そういう意味では、母もまた不器用な人だったのだろう。」
「私は父と裸でぶつかり合ったという体験がない。」
「子どもを育てると言うことがどういう事なのかよく分からなかったのではないだろうか。仕事も忙しく、性格の合わない母とのあつれきもあって、父としては子育てを一生懸命に考える余裕がなかったのかもしれない。」
「自分の育ち方に当てはめて父親不在でも子どもは育つと思っていたのかもしれない。自分も、母親だけの家庭で、勝手にやってきて、大人になったのだからという気持ちがあったのではないだろうか。」
「父は、かなりマザーコンプレックスな所があったと思う。母が、父の母親に対して批判的なことを口にすると烈火のごとく怒った。」
「母親さえいれば、子どもは何とか育つと思っていたのだろう。私がそれで寂しくなかったかと言えばウソになる」
「叔母(母の妹)の家は、夫婦が円満で、いつも家族で出かけたりしていたし、食事も皆で仲良く食べていた。世間には良くあるそういう風景が、私には珍しかったのである。」
「私が育った環境は、父親が不在で、母親はお嬢さん育ちで世間知らず、風変わりで知恵遅れという診断をされている次姉という家庭だった。だから、私は随分我慢を強いられた生活を送ってきたと自分では思っている。」
しかし、父親の偉大さが子どもを救う事もあります。
「偉い父親の息子で得をしたのは”偉い人”にたくさん会えたこと」
「盛田家というのは、長年の伝統があるのだろうか、非常に家庭を大事にする家風があった。」
「盛田氏には公私ともにどれだけお世話になったのか分からない」
盛田氏とは、ソニーの共同創立者の盛田昭夫氏です。
「盛田氏は私にとって、血のつながりはなくても、社会的にアンクル(伯・叔父)の役割を果たしてくれる”ソシアルアンクル”の様な存在だったと言えるだろう。実の父がいて、父同様に接して心配してくれる人がいる私は、ほんとうに幸せ者だと思う」
前出の 井深大 の所と一緒に読んでいただきたい。
子どもにとって、親の影響はとても大きく、父親不在の片親で育つと、子どもに親の愛情を与えることができないのです。
井深大氏も上記のことで苦しんだに違いないと思います。
そこで、「幼稚園では遅すぎる」「0歳からの母親作戦」「胎児から」等の3大著書を書いたのだと思います。
でも、このブログを読んでいる方はもう苦しむ必要はありません。
井深大翁の命令で始めた「催眠と瞑想」の研究、この成果を活かした催眠療法の施療や、瞑想法の指導をラディアンスで受けることが出来るからです。
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催眠療法で幼児期の心の傷を癒し、過去を悔やむことなく、
瞑想法で本当の自分や真理を探り、未来を憂うことなく、
今をしっかり生きる事ができます。
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